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   携帯サイト http://www.bochoclub.com/i/ 防長倶楽部はコミュニケーション力を高める小中学校教育研究会、国際観光を意識した松陰神社(萩市)宝物殿建設協賛など、郷土意識を基調とした教育文化活動への支援・協賛を行っております
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 ◆ 防長倶楽部(物語)


 財団法人防長倶楽部の機関誌防長倶楽部の昭和60年3月から11月に連載された 防長倶楽部物語を軸に防長倶楽部の設立の経緯などを掲載します。


揺籃時代

 防長倶楽部は、大正十二年七月十八日設立、同二十四日「設立登記」されているが、 その二ケ月後の九月一日の関東大震災で折角の出端をくじかれ、 創立記録など灰燼に帰した。
その後、探索の結果、その昔の記録が発見されたので、それに沿って足跡を辿っみよう。

大正十二年七月、財団法人として発足した防長倶楽部は、同十四年八月、会誌「防長倶楽部」を創刊したが 同号に次のような巻頭言を掲載している。

防長倶楽部誕生の産婆役

 防長倶楽部の前身甲寅会が呱々の声をあげたのは実に大正三年六月三日であった。

 場所は学士会館、産婆役は上山満之進、江木千之、入江貫一、男爵福原俊丸ら十氏。

 以来この甲寅会は第十二回の春を迎えて、会名を防長倶楽部と称し、組織も財団法人に改めた。

 その会員も漸増し、六百名を数えるに至ったので、会と会員の連絡機関誌として会報防長倶楽部を発行することになった。

 本誌は会務報告を中心に、会員消息、会員の和歌、俳句などの作品や学術を発表する  文化媒体たらしめるものである・・・。

 大正十四年八月

この記録が物語っている通り、防長倶楽部は大正三年六月三日に発足した甲寅会を産婆役として 大正十二年七月、財団法人として誕生したものである。

こうして、防長倶楽部設立時の最高役員は、暫定的に前記甲寅会の幹事長・湯浅倉平貴族院議員を初代理事長とし、 他の幹事原佐一氏ほか十三氏がそれぞれ理事に就任したが、翌大正十三年十月、大震災後の倶楽部再建のための役員を改選、 二代理事長に野村益三子爵・貴族院議員を、理事に今城善助氏ほか十三名をそれぞれ選出した。

各界に隠然たる勢力

 当時の防長倶楽部は、明治維新の勲功によって名を成した長州の顕官、貴族のよりどころとなり、 六百余名の会員中には、多数の歴代総理大臣、大臣をはじめ、少・中・大将の旧陸海軍人五十四名、 男・子・伯・候・公爵の肩書きを持つ旧貴族四十二名が名を連ねている。

また、財界、文化の面からみても会員のほとんどが社長、博士、学士の肩書きをもっており、 天皇の側近に使える侍従も何人か在籍していた。

それだけに、当時の防長倶楽部は政・財界から軍部におよんで隠然たる勢力を温存していた。

大正十二年のハプニング

 防長倶楽部は、こうした性格から政治に多大の関心を寄せ、大正十二年十二月二十七日、 東京虎ノ門で山口県人難波大助が摂政裕仁親王に発砲した不敬事件に狼狽し、度々緊急役員会を開き、 田中義一、岩田寅造、長岡外史、野村益三、江木翼の各氏が中心になってこれが前後策を協議した結果、 同年十二月三十一日理事長野村益三子爵が「宮中に参内して天機奉伺並に御機嫌伺を為した」がこれについての野村理事長は 理事会に次のような報告を提出している。

なお大助の父難波作之進は即座に防長倶楽部から除名された。


内幸町に「防長会館」建設
防長倶楽部-旧防長会館-間取り
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防長倶楽部-旧防長会館-間取り
 右の略図は防長倶楽部が、昭和四年十一月二十一日、監督官庁文部省に登録した自前の事務所 防長会館の所在地とその間取り図である。

この建物は現在の三井物産ビルの周辺に在った木造二階建、日本建築で、大東亜戦争の空襲で焼失した。

総理大臣級の顕官が度々馬車で乗り付けていたが、その馬をつないだり、畳の間の入り口で靴を脱いでもらうのに苦労した、 とその昔の古老は述懐していた。

階下は玄関側の洋館、応接室、特別室三間、その他控室、車夫室など十数室のほか広い"球突場"まで 設けてあり、階上は集会用の床つき大広間が幾室かの和室に設計されていた。

防長会館の由来

 前述のように防長倶楽部の源流は、 大正三年六月三日学士会館で発足した甲寅会であるが、 当時の記録によると、この甲寅会の主要メンバーだった柴田家門、上山満之進、江木千之、尾原雄之助、西村秀造、坪井九八郎、 松崎寿三、入江貫一、男爵福原俊丸、安村介一の十氏が発起人となって、大正十二年七月十八日、現在の防長倶楽部を設立 同年同月財団法人として設立登記した。

防長倶楽部は創立にあたって甲寅会の全会員と財産を継承し、初代理事長に甲寅会幹事長・湯浅倉平氏(貴族院議員)を選任した。

 防長会館もこの甲寅会から継承したもので、昭和二十年三月十日の太平洋戦争東京空襲による戦禍で全焼するまで、 日本の政財界の奥座敷して、重要な役割を果たしたものである。

「文化財」相当の名門会館

 防長会館は、日比谷公園寄りの東京市麹町区内幸町二の十六と登録されていた。

 上掲間取図の通り、五棟から成る和風二階建て、防長倶楽部創立直後の大正十二年九月、関東大震災で破損した部分を大修理して、 第二次世界大戦の空襲で全焼するまで活用されていた。

防長会館は、その昔、西欧文化を取り入れる社交場して設営された政府機関の華麗な鹿鳴館に比すべきもないが、 山口県出身の歴代宰相の伊藤博文、山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一氏をはじめ戦後の総理、岸信介、佐藤栄作氏また倶楽部在籍の 華族、公・候・伯・子・男爵四十二名、大・中・少各将官五十四名に加えて岩田宙造、久原房之助、鮎川義介らの財界、文化人の 集会所になっていた名門で、現存しておれば文化財に指定されたであろうほどの由緒ある建物だった。

レクリェーションセンター

 間取図でも明らかな通り、五棟のうち母屋の二階は、四方を廊下に囲まれた床つき十二畳半間が、二室、 階下は、会合用の十乃至八畳和室が三間、(洋館七坪半)事務室四坪、電話室、舎番室、湯殿、台所・流し、玄関、車廻し、 車夫溜まり、のほか別棟の洋館(七坪半)など、さまざまな集会に利用できる十六室を擁していたが、このほか次のような 防長倶楽部ならではの"遊技場"や貸家までもっていた。

その遊技場は、約十六坪の球突き室で、防長倶楽部では、これを特別会計によって経営していた。
利用者から料金をとり、税金も払っていた。如何にも高級クラブらしい経営ぶりだった。

車夫溜、舎番室というのも当時がしのばれる施設。
敷地内に貸家をもっていたのは、これら一連の建物を取得するとき、附属家屋として買い入れたものであろう。

防長倶楽部創立直後である二カ月後の九月一日の関東大震災でこれらの建物は大きな損害を蒙ったが、
一応3,155円で修復している。

昭和12年度期末決算では、これら五棟の建物を37,400円と評価(資産)しており、 特別会計による球戯場の収入を42円、税金47円50銭と計上している。

なお、昭和12年度期末総資産は50,421円と計上したが、この第一期決算によると 収入予算額7,810円に対する収入決算額は10,290円で、2,480円の黒字となっているが、 これは期中に2,200円の寄附金があったためである。

次に防長会館は如何に使用されていたかについての記録をたどると、

使用既定(大正十四年制定)

第一条 会員は随時倶楽部の設備を使用することを得。

    会員外の者と応接する時は成るべく応接室を使用するものとす。

第二条 洋館階上を特別室とし、日本館の事務室を除きたるものを普通室とす。

第三条 会館は集会その他のために予め期日を定め、理事の承認を経て特別室または普通室を専用することを得。

    前項の集会に会員に非ざる者を妨げず。

第四条 前条のばあに於いては以下の使用料を支払うものとす。

    但し会員外の者を主とする場合は五割増し、山口県出身学生を主とする場合は無料とする。

  一、特別室金 二円
  二、階上普通二室 金三円(但し一室のみ使用するときはその半額)
  三、階下普通室二室 金二円(但し一室のみ使用するときはその半額)

  五、撞球を為す者はゲーム一回に付金五銭を支払うものとす。
  但し金一円を前払いした者に対してはその月に限りゲーム二五回迄前項の料金を徴収せず。

第六条 倶楽部内に於ては秩序を保ち風紀に注意し、喧噪に渉ることを得ず。

    音曲その他の余興を為す場合は予め理事の承認を経るを要す。

第七条 倶楽部の使用時間は通常午前九時より午後十時迄とす。

第八条 倶楽部設備の物件を毀損したる者にに対しては相当の賠償を求むることもあるべし。

これが前に紹介した防長会館各室の使用既定である。

 これは防長倶楽部が設立された2年後の大正14年4月25日の記録である。
当時の防長会館の生態がありありと読み取られるばかりでなく、当時の世相も彷彿とする。

倶楽部室の使用料が一日建てで、特別室2円、普通室2部屋3円。

また、ゲームセンターの球突料が1ゲームにつき5銭というのも夢のような時代でもある。

東京市麹町区内幸町1−5(旧NHK会館隣接地)といえば国会議事堂にも近い市内目抜きの場所で、 この防長会館は活動していたのである。



松陰神社造営の秘録

在京防長人の報恩

 防長倶楽部では崇敬行事の一環とし伊藤博文公墓前祭(品川)、元治甲子殉難慰霊祭(靖国神社、東福寺) 乃木神社(東京)、松陰神社(東京)、などの祭神慰霊行事に協賛しているが、その1つ東京世田谷の吉田松陰神社の造営にまつわる秘話が 防長倶楽部の古文書から発見された。

上山満之進手記

 防長倶楽部の評議員で、元貴族院議員・上山満之進氏(物故)の昭和7年5月15日付手記で松陰神社の建築と同崇敬会の経緯が それである。

約1800字からなる詳細な報告書だが、その要点は次の通り。


 東京郊外世田谷鎮座・松陰神社の建築及昇格の為に大正7年12月15日東京・松陰神社崇敬会が出来た。

その起こりは松陰先生の裔孫・吉田康三氏、先生の門下・野村靖氏の嗣子・野村益三子爵(後の防長倶楽部理事長)諸氏が、 大正6、7年頃から思い立たれたものである・・・

こうした書き出しにつづくこの手記を要約すると大正7年8月、松陰神社・信徒総代として寺内伯爵、野村子爵、大場信続、 阿川信平、斉藤信良の五氏を選び、関係者670人をもって、崇敬会を発足させた。

崇敬会の事業目的は

一、神社の昇格と基金の調達

二、社殿の建築

三、墓地の修造

四、境内の拡張

であった。

 こうして、この運動の総裁に山県有朋公、副総裁に三浦梧楼子爵、寺内正毅伯、 委員長に野村益三子爵が就任し、募金をはじめたところ、約1,250名から58,500円の寄附金が集まった。

これに平行して、毛利家では境内用地として土地2,400坪を無償で寄附された。
建築資金や敷地が確保された昭和2年5月17日、いよいよ着工、翌3年6月から8年がかりで神社が完成し、 墓地も建立された。

この間、時の内務次官(初代防長倶楽部理事長)湯浅倉平氏、山県伴三郎公爵らの援助、協力ぶりは特別大書に値する。

残るのは神社の社格昇進問題であったが、これも昭和7年2月12日、内務大臣より府社に列すと認可されたので、 同年4月21日を春季例祭として盛大な昇格報告祭を開催したが、宮内省はこれに特別の祭粢料を下賜せられた。

この事業の収支決算書によると、寄附金、同利息計84,000円、神社建築諸費68,000円、 残金は神社基本金として留保された。


松陰「斬罪・埋葬」のドラマ

 前記上山満之進元防長倶楽部評議員、貴族院議員の手記は現在の松陰神社(東京都世田谷区若林)が造営された 経緯を克明に物語ったものであるが、松陰先生の遺体がここに埋葬される前の遺体をめぐっての悲劇と長州志士の恩師への報恩活動は一巻のドラマであった。

その始終の概略は

 江戸・小伝馬町の獄舎で処刑された松陰の遺骸は、重罪人憂ー扱いとしてどこかに放棄されるかもしれないと、 先生の門下生二人が獄史を金で買収して遺体を受け取ることになったが、その受渡し場所は犯罪者を埋葬する 囘向院と指定された。

その約束は守られたので門弟たちは寺の境内に先生の遺体を仮埋葬し、後日桂小五郎らの指ずで本葬にしたが、 幕府はなおも執拗にこの墓の破壊撤去を命令した。

こうして長州藩と幕府の反目はいよいよエスカレートしたが、薩長連合・討幕勢力が徳川勢を圧倒するにいたり、毛利藩は 朝命を奉じ、将軍”家茂”に戊午以来の国事流刑者に処せられたものを赦し、死者の罪名を削らせた。

これによって、久坂、高杉、品川、伊藤らは改めて松陰墓地改装運動に蹶起、ついに前項で述べた経緯によって現在の 松陰神社が造営されたわけである。

鬼人も涙する門弟の忠誠活動

 それは松陰が小伝馬町牢獄で処刑された翌々日の安政6年10月29日7ツ時(午後4時)のことである。

先生が遺書を残した門弟の寺尾新之允と飯田正伯は、罪人扱いの遺体は犬馬のように放棄されるかも知れないと、 藩邸の桂小五郎らと相談して、獄史金六を金で買収して遺体を受けとる約束をしたが、 その受け渡し場所は、罪人を葬る小塚原の囘向院ときまった。

寺尾と飯田は約束通りに、そこで先生の遺体を受取った。

遺体は四斗樽に押し込めてあったが、 幕史に見つからないよう大急ぎで仮埋葬して、後日の措置を桂小五郎らに任せた。

そこで桂小五郎(木戸孝允)と伊藤利助(博文)は、寺尾、飯田を伴った4人でひそかに再び囘向院に出向き、 用意していた柩に四斗樽の遺体を鄭重に移したが、この時の模様を古文書は次のように記録している。

遺体の首は、飯田が手にして乱髪を束ね、桂は寺尾の手杓でその首と体の流血を洗い清めた後、桂は自分の襦袢を脱ぎ、 飯田は黒羽二重の下着をとって先生の体を覆い、伊藤は帯を解いてこれを結び、その上に首を置いた。

 そして数日後、高杉晋作らの同士はまた囘向院に出向き、高杉の執筆で墓標に「安政巳未十月念七日死」 「吉田寅次郎行年三十歳」と記録した。
その後この墓は幕府の命で破壊撤去するというので、高杉、伊藤らは又もや遺体を毛利藩ゆかりの地、世田谷区に仮埋葬したが、 それも幕府の毛利藩江戸地没収によって、松陰墓地危うしの運命にさらされたことは前述の通りである。

しかし幸いにも、薩長討幕勢力の台頭に乗じた毛利藩主の政治力で、この世田谷墓地は難を逃れたのである。

二つの松陰神社

その一つは吉田松陰誕生の地、に他の一つは本欄で紹介した東京都世田谷区に造営されていることはいうまでもない。

その東京松陰神社では、春(4月27日)と秋(10月27日)の二大祭を中心に、中祭、小祭など度々の年中行事で 松陰先生の霊を慰めているが、こには国に殉じた維新の志士達の碑も祭ってある。



吉田松陰と金子重輔の銅像 柿崎弁天島(下田)に建つ、吉田松陰と金子重輔の銅像

 吉田松陰は天保元年(1830)萩は松本村の藩士である杉百合之助の次男として生まれる。

叔父の吉田大助の養子となり山鹿流兵学師範の吉田家を継ぐ。

嘉永六年(1853)六月、アメリカ軍艦が浦賀に来航。海外事情の視察の必要を感じ、下田からアメリカの軍艦に便乗し、 密航を企てたが乗船を拒否され失敗。 江戸の獄に囚われ、その後、萩の野山獄に一年余り入れられた後、実家杉家にて謹慎。

この入獄および謹慎中に多くの本を読み、書き、さらに松下村塾で多くの若者を教えた。
高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔磨、前原一誠、品川弥二郎、野村靖、山田顕義、伊藤博文、 山県有朋、木戸孝允など、多くの門人達が明治維新の偉業を成したことは周知のとおりである。

安政五年(1858)、幕府が勅許を得ず外国との通商条約に調印してから、 松陰の時局に関する言動は更に、はげしくなり、藩主に塁がおよぶことをおそれて、再び野山獄に囚われの身となる。 その後、江戸に送られ、世に言う安政の大獄で、安政六年(1859)十月二七日、江戸伝馬町の獄で処刑された。

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留とどめ置おかまし大和魂」の辞世を遺して。享年三十歳。

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